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tetsuro narumi interview/one


2016年2月29日、ひとりの寡黙な男が産み落とした〈最果てのソングブック〉の魔力を、おそらくあなたはまだ何も知らない。無理もない。作品は作家本人が封筒に一枚一枚封入する自家製で、ディストリビューションには乗らないのだ。ototoyからひっそりと配信されているとはいえ、生き馬の目を抜く音楽シーンにあってマネージメントをつけず、レーベルにも所属せず――つまり営業(広告出稿)に注力しないという業界慣例に逆行する方針を選択した結果、控えめな本人の宣伝だけでは、この半年でメディアはおろか音楽ジャンキーのタイムラインにさえその名が一度たりと現れなかったとしても、なんら不思議でない。

青森、とりわけ津軽の表現者が想起させるある種の偏向なイメージを、きっと誰もが共有しているはずだ。太宰治と寺山修司の両巨頭がそうさせるのか、はち切れんばかりに膨張した強烈な自我が「俺だけを、見続けろ」と執拗に語りかける。イノセンスを強調されがちな奈良美智にしたって、彼の表現を外界の汚濁から自己を守るコクーンの羊水として(意地悪く)捉えるなら、〈強烈な自我の発露〉という意味では、三者に大きな違いは無いのだ。そこにきて、本稿の主役たる津軽のシンガー・ソングライター、鳴海徹朗の在り方は際立っている。

青森県黒石市。人口わずか3万の古い商都。あなたが知っているかもしれない青森市でも八戸市でも弘前市でもなく、また別の歴史が堆積するこの町に、鳴海徹朗は住んでいる。りんご農家で働く彼は毎日、りんご園のある小高い丘から津軽平野を見下ろしてきた。音楽好きの少年は自然の成り行きでギターを手にするが、初めての音源と呼べる『美しい叫び』を弘前のnorthmalllabからリリースする頃には30代を迎えていて、その独特の世界はすでに奇妙な老成を帯びていた。「ボロフェスタ」はじめ京都シーンの多様性を支えていたゆーきゃんが、続いて、後藤正文(ASIAN KUNG-FU GENERATION)やLOSTAGE、ジム・オルークとも仕事をする長谷川健一が鳴海徹朗しか持ち得ない魅力に敏感に感応し、気付けばその魔力に魅入られていた。

ここに、鳴海徹朗にとって3枚目のアルバム『銀色の丘』のインタビューを公開する。収録は今年3月。リリースから半年を過ぎた現段階で『銀色の丘』の唯一の取材であるばかりか、今年35歳の鳴海徹朗にとって人生初のインタビューとなった。かつて〈文化果つる地〉と蔑まれた津軽の風土を、鳴海徹朗は淡々と嚥下しながら思索を深めているように見える。それは、個と自我に強く執着した太宰や寺山や奈良、そして鳴海が憧れたエリオット・スミス、もっと言えば〈自己と一人きりで向き合う〉全てのシンガー・ソングライターたちとは、全く別のステージに立っていることを意味する。鳴海徹朗の描く風景の中に、彼の姿はない。鳴海徹朗の表現の中で、彼の自我は蜃気楼のように捕まえることができない 。その静かな戦慄の源泉を探るべく、生い立ちから話を聞いた。

 

【初めて自分で〈ちゃんと曲が出来た〉と思ったの頃には20歳前後になってたんじゃないかな】

――鳴海さんはご実家がりんご農家なんですか?

「家の仕事ではないです。普通のりんご農家に勤めていて。毎年冬は他の仕事をしてたんですが、今年は『銀色の丘』のリリースを自分でやろうと思っていたので、その準備もあるから(冬期間の仕事は休んだ)。ずっと同じ農家に勤めているけど、冬の仕事が無いだけで春から秋まではずっとあるので…もうそろそろ始まりますしね」

――実家がりんご農家なのかと思ってました。以前、鳴海さんがブログでお父さんのレコード・コレクションを載せていたときがあって。ジャズを中心にクラシックなロックやポップスが多かったのですが、けっこう枚数は多いんですか?

「そうでもないですよ」

――でも、ジャズはマイルスの『Bitches Brew』やコルトレーンの『A Love Supreme』といった王道からチャールズ・ロイド『Forest Flower』といった名盤まであって、他にもビートルズやジャニス・イアンだったり素敵なコレクションに見えました。

「ベタなジャズと…ポップスは母親のレコードも混じってるんです」

――小さい頃から音楽に囲まれた環境だったんですか?

「よその家庭よりはそうだったかもしれないですね」

――そういった音楽にまつわる昔の記憶は?

「とにかく父親がジャズ好きで。でもジャズは全然意味が分からなかったですね。マイルスなんかよく流れていたけど、子供には分からないじゃないですか。コルトレーンのサックスなんて子供にとってはうるさいだけ(笑)。母親はポリス、スティングが好きで、その二つは家でよくかかってましたね」

――もしかして鳴海さんのお父さんは音楽をやっていたんですか?

「ギターは弾けるんです。ジャズ・ギターを」

――ジャンゴ・ラインハルトみたいな?

「いえいえ、そんなんではないけど、ただ父親がどんなギタリストを好きだったかはいまいちよく分からなくて。ジム・ホールやケニー・バレルあたりが好きだったのかな」

――ミュージシャンとして活動してたんですか?

「学生の頃にアルバイトでジャズ・バンドを組んで演奏するような機会はあったみたいです。当時父親は東京の大学に行っていて。アガリ症だったらしく〈うまくやれなかった〉って聞いてます」

――そういう資質を引き継いでる自覚はあります?

「アガるときはアガるけど、父親ほどではないのかな。父親は出番が終わってから胃痙攣を起こしたことはあるらしいけど」

――自分から意識的に音楽を聴き始めたのは何歳頃なんですか?

「小学校高学年くらいでしたね。当時の流行りものでしたけど。姉がいたので、その頃はBOØWYの影響が凄く大きくて。布袋寅泰なんか聴いてました」

――もしや『GUITARHYTHM』ですか?

「『GUITARHYTHM』です(笑)」

――ベタですけど、一番最初に買ったアルバムは?

「それが全然覚えてなくて。洋楽ではなかった。布袋か氷室…みたいなあたりだと思います」

――なるほど。楽器はいつ頃から始めたんですか?ご自宅にギターがあったんですよね?

「ギターはあったんですが、自分からちゃんと弾いたのは意外と遅くて、中学校2年生から3年生にあがるあたりじゃなかったかな」

――何かきっかけがあったんですか?

「父親から急に〈買ってあげるよ〉と言われて。ヤマハのアコースティックギター、赤いエレアコでしたね。今弾くと少し恥ずかしい感じの。その頃になるとスピッツが好きになるんです。初めて弾いた曲は“空も飛べるはず”」

――スピッツってけっこう沢山のコードを使う曲が多いですよね。最初は難しくなかったですか?

「コードは使うけど、あまり複雑じゃないんですよね。変なコードはあまり出てこないから」

――コード進行が載った〈歌本〉が売ってたりしましたよね。

「あれはかなり読みましたね。後ろに載ってるコードの一覧表を勉強したりして」

――てことはJ-POPとかJ-ROCKみたいなジャンルがコピーの入り口だった?

「やっぱりそうですね」

――鳴海さんの今のスタイルってフィンガーピッキングを多用してて、テクニック的にもすごくしっかりしてるじゃないですか。その辺りの基礎はどうやって学んだんですか?

「あれはエリオット・スミスですね。彼の存在は自分の中では大きい。それまではフィンガーピッキングに挑戦したことがなかったですから」

――でもそしたら耳で聴いてコピーしてたってことですよね。難易度が一気に上がりそう。

「そうですね。あの人の曲は耳コピでなんとかなるような曲は少ないので、影響は受けてるけど、彼の曲をしっかりカバーしたことがあるかって言われたら、無いような気がしますね。ああいう感じでやりたいってイメージが頭の中にあって、最初は真似してたような感じでしたね。僕はそれまで表立って活動してなかったので、そんなことを家でコソコソとやって出てきたんです」

――そこから〈自分で曲を作ろう〉というモードに切り替わったのはいつ頃なんですか?

「コードを弾けるようになってすぐに〈曲を作りたい〉という気持ちになって。最初は全然うまくできなかったですね。中2から中3なんて、受験で一番大事な時期じゃないですか。そんな時期に本当にギターばかりやってました。当時はバスケ部だったけど、ギターを始めてから〈辞めてもいいかな〉って気持ちになって。でも友達がほとんど部活関連の人たちばっかりだったので〈あと何か月かは続けよう〉と」

――ギターを始めてすぐに〈曲を作りたい〉という気持ちがあったのは、元々シンガー・ソングライターの資質があったのかもしれないですね。

「でも変に根気の無いところがあって。1曲全部コピーするのって難しいじゃないですか。だから覚えたコードで好き勝手やってるのが楽しかったんでしょうね。ただそういうやり方だったので、初めて自分で〈ちゃんと曲が出来た〉と思ったの頃には20歳前後になってたんじゃないかな」

――ギターを始めてから5年くらいはかかったと。

「〈なんか変だなぁ〉とずっと思ってました」

――ちなみにその時の曲って今も歌ってるんでか?

「歌ってないです」

――曲名は?

「未だにそうなんですけど、なかなか曲にタイトルをつけられなくて」

――じゃあその曲もタイトルがついてないんですね。音源にもなってない?

「なってないです。ライブで歌ったりもしてない」

――幻の曲だ。

「でも、最初の音源(2011年作『美しい叫び』)の1曲目に“琥珀”って曲があるんですが、その幻の曲ではないけどその時期の曲が少しベースになってたりはしてますね。高校の終わりくらいに作った曲。それが一番古いかもしれないですね」

――鳴海さんの曲って、感触としてはフォーキーだけど、ソングライティングのメソッドはフォークの伝統とは関係のないところにある気がして、その変なねじれが面白い。それって意識的にそういったスタイルを構築していったのか、それとも無意識の産物として結果的にこうなったのか、その辺が気になってました。

「それは指摘されたことがあって。歌ものはそれなりに色んな曲を聴いてきて、いざ自分でやるとなった時に面白いものは作りたいじゃないですか。試行錯誤はしてたんですが、やっぱりそういう意味だとエリオット・スミスの影響は大きいですね」

――また名前が出てきましたね。鳴海さんにとっては大きい存在だ。

「当時考えていたのは、日本語と英語の間にある壁が大きくて。エリオット・スミスの真似をして、いざ日本語でやってみようとなると、うまくいかないんです。今でも誰かの曲を聴いて、安易に英語の詩にするとどうもメロディーがチープな感じに聴こえてしまう。軽薄な感じがするんです」

――分かる気がします。

「高校生くらいの頃で、洋楽ばかり聴いてたんですが、そんなことを考えてましたね」

――ちなみにその頃聴いてた洋楽ってどのあたりですか?

「たとえばロッキング・オンなんかの雑誌によく出てくるようなベタなやつです。オルタナ、グランジ…レディオヘッドも出てきてた頃かな。でも、大学に入った頃に日本語のポップスがまた好きになって。とはいっても中学生の頃とはだいぶ違いますけど」

――それはどのあたりを?

「はっぴいえんどをまずは聴きますよね。あの周辺の…大貫妙子なんかはすごく好きでした。そういったところに戻って日本語でのメロディーの作り方という部分に(自分の意識が)再び入っていったんでしょうね。それらをなんとかかんとか組み合わせたんじゃないかな、と思います」

――洋楽を経由して日本語での表現にこだわったからこそ今の形があるんですね。

「英語でやってみたときに、どうしてもメロディーの部分が自分で納得がいかなくて」

――元々はエリオット・スミスが好きだったのに、鳴海さんの音楽はそのねじれの部分が興味深いですね。当時、エリオット・スミスをきっかけにUSインディーのバンドを聴き始めたということはなかったんですか?

「誰かがきっかけという部分はあまりないかもしれないけど、エリオット・スミスが在籍したヒートマイザーのメンバーのバンド、クアージだったりNo. 2だったり、その辺は聴いていましたね。大学が仙台だったんですが、火曜日が1コマしか講義がなかったので、終わったら街へ出てタワーレコードやHMVに行って、お店だと試聴がいっぱいできるから、USインディーというよりはそこにあったものをひたすら聴いていた感じでしたね」

――では大学時代に日本語の音楽を聴いていたのと同時に好きだった海外の音楽はどのあたりだったんですか?

「昔、よく行っていた弘前の洋服屋でINCLUDESというお店があって、そこのスタッフの人の影響でクラブ・ミュージックも聴いてましたね」

――え、意外(笑)。

「当時、ジャザノヴァがDJをしに弘前に来るって話があって、メンバーの誰だったかが来たんです。そういうこともあってジャザノヴァは聴いてましたね」

――じゃあクラブ・ジャズを聴いてた?

「大学の頃はそれが多かったかもしれないですね」

――クラブも通ってた?

「クラブは全然通いませんでした。やっぱり根がこういうところがあるので(笑)。でもその洋服屋の人に教えてもらってCalmなんかも聴いてたかな。リミックスを辿ってってKYOTO JAZZ MASSIVEだったりとか。ただあの周辺の人たちの名前は全然覚えられない(笑)。U.F.O.(United Future Organization)とかね。ちょっと違うけど、タワレコでOvalをジャケ買いしたのも覚えてる」

――イメージになかったので驚きました。でも無理矢理かもしれないけど、〈音のデザイン性〉みたいな部分では今に影響が無いとは言えないような気もします。

「そうだと思います。今の青森のシーンってハードコア(パンク)が強いですけど、クラブ寄りの音楽を作っている人たちも僕の曲を聴いてくれていたりして。そういう意味では、もしかしたら糧になってるのかもしれないなと。いわゆるロックっぽいところに素直に行かなかったせいで、悪く言えば醒めてるんだろうけど冷静な部分はあるのかもしれない」

――青森のシーンの中だと珍しいタイプですよね。

「それはひしひしと感じます。やりづらさというか(笑)」

――話は変わるんですが、2012年の2作目『火まつり』で鳴海要吉(鳴海徹朗と同じ黒石市出身で明治〜昭和期に活躍した歌人)の短歌に曲を付けていたじゃないですか(“鳥を慕ふ”)

「著作権も切れてるだろうと思って(笑)」

――(笑)。血縁関係があるわけではないんですよね? どうやって知ったんですか?

「血縁関係は無いと思います。いつの間にか知ってた人で、そんなに沢山の作品を読んだわけじゃないけど調べているうちに〈いいな〉と思って」

――鳴海要吉は「TUTI NI KAERE(土にかへれ)」という詩集を出していて、『火まつり』の1曲目が“土に還す”。これは何かあるな、と感じていて。

「まだ〈TUTI NI KAERE〉の存在を知らない時に“土に還す”という曲を作って、その後にたまたま鳴海要吉を読んだので…」

――おお〜、それは運命的なものを感じますね。でも鳴海さんの言葉の感覚って独特で、どういったものの影響でこのスタイルが出来上がったのか外からは簡単には分からないですよね。

「日本語の歌を聴き始めたあたりに、やっぱり詩も意識しながら聴いていて。詩は今でも作るのがすごく苦手なんです。流行ってる歌のような雰囲気で作ればそんなことはないんだろうけど。最初の頃に聴いていたスピッツなんて歌詞がとんでもないじゃないですか。今になってその凄さがどんどん分かってくるような」

――例えばどの曲ですか?

「何でも凄いですけど、“渚”がけっこう好きですね。〈野生の残り火抱いて〉とか、今でも印象に残ってる。作り始めた頃は、歌詞は沢山読んでたけど、文芸の詩にはあまり興味が無かった。でも『火まつり』の後あたりに限界を感じてきて」

――それは言葉を紡ぐ作業に?

「そうなんです。何とかしなきゃなと思っていた矢先、身近に俳句をやっている人がいて。今、俳句の同人に入れてもらっています」

――そうっだったんですか! 俳号をもらって?

「俳号ももらいましたけど、恥ずかしいので伏せておきます(笑)。『火まつり』を出した後のライブで東京に行って、mmmと雪舟えまさん(歌人・小説家)が一緒だった時があって。その日のライブがすごくて一気にファンになったんです。そこから短歌にも興味が出てきましたね。そういった蓄積がこれまで無かったのがいけなかったのかな、と感じることもあったんですが、最近になって〈でもあんまり関係ないや〉とも思ってます(笑)。結局歌詞は歌詞だな、と。ただ、今回の『銀色の丘』を作っていたあたりはまさに悶々としていた時期ではあったけど」

――ちょうど東京の話が出たついでに聞いちゃいますが、こういった地方で音楽だったり芸術の表現に取り組んでいて、じゃあ本腰を入れてやろうという段階で東京だったり都心部に出て行くという選択肢もあったかと思うんです。鳴海さんはその辺りどういったスタンスなんですか?

「今歌っている状況が成り行きみたいな部分もあるので…まあ本気にはなってきているけど、青森に関わっていたいという気はするんですよね。〈盛り上げようぜ〉ということではなくて。仕事がりんご農家なので、冬の間はあちこち行ってみてもいいのかな、とは思っています。ただ、完全に離れる気は無いですね」

――nor thmall lab(ノースモールラボ:弘前市を拠点に活動するインディーレーベルで、『美しい叫び』『火まつり』のリリース元)の卓くん(佐藤卓:nor thmall lab主宰/バンド「聞こえないふりをした」メンバー)なんかは、地元のシーンにこだわって活動してますよね。共通するような部分が鳴海さんにもあるのかなと思っていたけど、お話を聞くかぎりだと、そこまでのものは…。

「ないですね。卓くんに初めて会ったのは、まさにこの場所(弘前市のカフェ「ゆぱんき」)で。この店の前のオーナーが音楽にすごい詳しい方で、その方が長谷川健一さんを弘前に呼んだときに僕に(共演者として)声をかけてくれて。そのライブにお客さんとして卓くんが来たんです。そこで卓くんが僕の曲を聴いて、〈リリースをしましょう〉と話を持ちかけてくれて」

――それはいつ頃の話ですか?

「たしか2010年だったかな」

――鳴海さんから見てnor thmall labはどういう存在ですか?

「家庭が忙しくなっちゃって最近はあまり活動できていない部分もあるんでしょうけど…彼は僕に〈もうちょっとちゃんとしたところから出しなさい〉と送り出してくれたんです。『銀色の丘』のレコーディング・メンバーからは〈鳴海くん、どうやって出すの?〉としきりに言われて、僕よりも考えてくれていたかもしれない(笑)。僕はそのときアルバムを作ることで精一杯だったので。でもみんなの意見を聞いてみて〈一回は自分でやってみるか〉と。あのメンバーだったので、頼めばどこかしらのレーベルからは出せたんでしょうけど」

――一回自分で経験してみたっかと。

「メンバーの森ゆにさんも自分でやってて、単純に面白そうだなと思ったので。でも大変ですね(笑)。もう一回やったので次はどこかに頼もうかと思います」

――なるほど。ではnor thmall labの他に今の青森のシーンで鳴海さんが一目置いてたり、共感しているアーティストはいますか?

「やっぱり誘ってもらったnor thmall labの聞こえないふりをしたと、もうすぐ東京に行ってしまいますけどfoolie、あとは青森のシベリアンハスキーズ。ヴォーカルが僕と一緒で鳴海くんと言う子なんですが、20代半ばを過ぎたけど高校生の頃から知っていて。どんどんいいミュージシャンになってきてますね。それと一緒にツアーを回ったオオシマコウスケくん(THE EARTH EARTH、オオシマコウスケ&HORNS、ソロなどで活動)。色々できる人なので感心してます」

――けっこういるんですね。

「あと八戸がやっぱりすごい。演奏の技術に関してはプロフェッショナルですね。Free Sound Orchestraってバンドとか、zodiacとか…八戸は本当にすごい。雰囲気が違います」

――青森と一言で言っても色んなアーティストがいるんですね。じゃあ音楽に限らず、郷土の表現者…例えば太宰治なり寺山修司なり、鳴海さんが影響を受けたような人っていますか?

「一応一通り目は通したんですけど、そこまで熱をあげて追いかけた人はいないですね」

――全然話が飛んじゃうんですが、普段りんご畑でギターを弾いたり曲を作ったりするんですか?

「してないです(笑)。やれないことはないと思うんですけど…やってはないです」

――作曲っていつもどこでやってるんですか?

「よくミュージシャンのインタビューでありがちですけど、作ろうと思っていないときにできるというか。頭の中ではよく考えてますね。家に帰ってまだ覚えてて〈いいかもしれない〉と思えば作ったり」

――なるほど。実は今日の狙いとしては、黒石という町と鳴海さんの音楽との結び付きのような部分を解明したかったんですけど…ここまで話をうかがってるかぎりだと、あんまり関係ないっちゃないのかもしれないですね。

「そんなにないですけど、やっぱり暮らしている町なんで…意識しないで自然に影響が出てくるのがいいのかなとは思います」

――個人的な話ですけど、津軽に生まれ育って、高校を卒業する頃が一番地元が嫌いで、でも町を出てからどんどんいい部分が分かるようになって戻ってきた…という故郷に対するありがちな気持ちの変遷があるんですが、鳴海さんは黒石に対してはどうですか?

「僕も大学で一端離れたので、故郷の良さは同じ感じで認識したと思います。でも、今の〈地元を盛り上げよう〉とか〈町おこし〉みたいなものは、あまり好きじゃないです。やらなくてもいいんじゃないかな、くらいに思ってます。〈音楽で町おこしをしよう!〉とか、ただの合言葉にしかなってないんじゃないかという気がして」

――行政主体というか。

「うん。それよりは、とんでもなくいい曲を1曲作り上げた方が、よっぽどためになるような気はするんですけどね。町のことは好きですけど、観光への力の入れ方には恐怖を感じます。コケたら地獄行きみたいな」

――地方創世は流行りだから、行政が色んなアプローチをしているのはよく見ますけどね。

「最近ネットの記事で読んだのは、〈廃れていることを気にしているのが嫌い〉みたいな話があって、自分もそういうことなのかなと思いました」

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